言葉には力がある。力の源は私の脳みそで、シナプスとか海馬とかいろいろな器官が総動員で言葉を紡いでいく。記憶から引っ張り出すこともあるし、目の前の紙コップからヒントを得ることもある全てはシナプスと海馬の仕業。私の脳みそが私という人生を経て紡がれる言葉。誰かが絶対に盗むことのできない財産。
たとえ、私を殺して、この脳みそを引きずりだしても意味がない。
そういえばいうほどに躍起になった泥棒一味が今白日の元に自分達の罪を露呈させている。
罪というにはあまりにもお粗末で、粗品として献上されてもお断りするほどだ。ちなみに、これは課税対象になるだろうか。法律勉強中の私にはまだわからない。
人間の命を大切にしてほしいと切に祈り、願い、求め、宣伝し、お涙を頂戴する時というのはいくつかの規則性がある気がしている。
自分の命が危うい時だ。
喉元に剣先が突きつけられている時こそ、神だ仏だと言う。
白洲次郎が実に美味いことを言っている。
「そんなに信心したいのならイワシの頭でも飾っておけ」と。
つまりは何事も自分次第であり、責任も義務もこの身から逃れることはできないというわけである。
無責任に誰にも気づかれないからと不誠実なことをすると、段階があって、これもまた整理整頓されてオートマッチクな末路をたどるのだ。
まず、相手を糾弾する。いかに相手が間違っているか糾弾し同時に自分を正当化する。
次に、仲間を作り始める。同じ類の傷のものを集める。同時に周りに自分への同情を乞い願う。
最後に、どうしようもなくなると、神や仏を持ち出してい命乞いをするのだ。ごめんなさいと謝るふりをする。ごめんなさいと思っていなくても命のためなら、這いずり回ってバカを演じるだろう。金を払えばまだ本気というものかもしれない。
本当に自分の罪に苛まれ、立ち行かなくなったものは死を選ぶ。立場の死でも社会的な死でもなんでもいいが、自ら自殺を選ぶ。
イスカリオテのユダがそうであったように。
命乞いをすると命の重さを知る。すると、生きながらえたあと、また人生が駆け上がってきた時に、自分よりも正しい目障りなものが見え始めるとこの時の自分の苦しみを思い出す。悪魔が囁く瞬間は復活の後にやってくる。自分が苦しんだのだからという自負が慢心をおこさせる。
「そうだ、人は責任に耐えかねて死ぬことを考える」と。
命を大切にするのは自分の罪に耐えかねて自殺を選んだ人間でだからである。この論理のもと、一年前、私は自殺に見せかけて殺された。ふたりの偽物の兄弟に。
今は見事JERUSALEMの助けもあり復活したものの、あの時、私は自殺に対して泣き寝入りをした。
なぜなら自尊心さ自殺に追い込まれたからだ。
自分の正しささえも自殺に追い込まれたからだ。私が殺してしまった自尊心は黄泉に下っていた。救世主となったJERUSALEMが私の自尊心と私の心、そして肉体を天にあげてくれたのだ。
この世界には天使はいなかった、悪魔と友人しかいなかった。
現時点の結論がどうか、覆されますように。世界には悪魔と友人だけでなく、家族も天使もいたと結論が延長されますように。
ふたりの偽物の兄弟を解雇しました。違約金が発生するでしょうが、そのすべての責任をふたりの偽物の兄弟に帰属するものとします。どこの事務所も後始末を手伝わないように。以上です。
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