聖書には4つの福音書がある。それぞれに書かれた時代が違うから言葉の癖のようなものも違ってくる。
同じ譬え話を執筆してもどこかにカラーが出てくる。神様はその福音書が世に出ることを「良し」とされた。だから私たちは今4つの福音書を聖書と捉えている。
例えば、ある福音書は二元論とユダヤ律法主義的な立場双方が活躍し教会自体が混乱を招いていたから事態の収束を願い求め、語気が鋭くなっている。「泣き喚いてはぎしりするだろう」という半ば呪いのような言葉が流行語のように幾度も登場している。
パウロのローマへの宣教旅行の中では、この時パウロは囚人であって船の中では最も低い立場にあった。しかし、ローマへ向かう最中、神風が吹き嵐が起こったために難破船となったこの小さなコミュニティの中でパウロは絶大な影響力と権力を持つことができた。「この人の信じている神様は本物である!」と錯乱した誰かが意図せず叫んだのだろう。棚からぼたもちと言うべきか、神の御心というべきか、それはその人間がどれだけ謙遜な魂を持っているかによって異なってくる。錯乱を精神的なものと捉えるから御霊と捉えるか、通常、波風のたたない平和な時代であれば精神錯乱であると多くの人が捕らえるだろうが、時代が嵐の只中にあり混迷を極める時代の潮目だったとしたら。
命が惜しい人間らしさは弱さであり、逆にそれがあれば、それこそが人の証明となるだろう。
神をも恐れぬ人々の弱さの真髄は自分の手の内から離れる現実を受け入れられない恐怖だと思う。手中に収めておくことで平和が実現されると思い込んでいるその弱さを彼らはすり替えてこう叫ぶ「宗教は人を懐柔する詐欺のようなものだ、信じてはいけない」と。
信教の自由と身体の自由というのは基本的人権だ。このふたつが確立されていない国というのはいわば文明未発達の後進国であると思う。
信教と身体を奪うことによって世の中の秩序が一本化されるという形骸化された共産主義のもと政治をおこなっている国は幸いにも現在、世界中探しても一国もない。
ロシアだ中国を名指しして形骸化された共産主義だというのは私たちはナンセンスだと考える。時代は変わった。スターリンを経て、レニングラードはサンクトペテルブルクと都市名を変えた。ひとりの指導者に荷を負わせることの限界を長年の政治体制の中で受け止めたのだろう、宗教にシフトしたロシアは最先端の共産主義と言える。
信教の自由を手に入れたロシアはかつての共産主義ではない。言ってみればネオ共産主義である。
中国も一帯一路のその先には陸続きのヨーロッパや中東を見据えている。一大経済圏構想にはきちんと渡り合うべき外国がその先にある。決して権力が欲しいだけの小さな共産主義ではない。中国も大陸の中で長い歴史の中で経験を通して国の道を試行錯誤してきた成果だと私たちは考える。中国もまたネオ共産主義への脱皮に成功した。
「昔は良かったね」といまだに懐かしむことができないご年配の方々がいる。懐かしむことができないのは第一線で活躍し続けているご苦労からだとお察しする。
空白期間は最後の切り札として取っておいたのだろう。よもや誰もその空白を鵜呑みにするわけがない。でしゃばりなのではない、女というものは誰かと比べては蹴落とす習性を生まれながらに与えられているのだ。
神輿に乗るのは女神であり、担ぐのは男である。
神輿に女神はふたりもいらない。女の喧嘩は男が辟易とするほどに泥試合になる。
これが今日の種明かしだ。
なんてことはない、難しい政治や経済の話ではない。女の癇癪がこの国をダメにしているのだ。
ちなみに我らの芍薬は36歳。若いと言われてマウントをぎりぎりとられる年齢である。
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