言葉尻をとらえられない方法のひとつに曖昧な言葉を多用するという方法がある。
文字数制限のあるツイッターが言葉狩りの標的になるのは曖昧な言葉を使えない仕組みがあるからだろう。
日本語は多様な言語だ。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、新語流行語大賞は年一回であるけれど、月単位で言葉が移り変わっていく。「あれ?一月にはやっていた言葉ってなんだっけ?」振り返っても思い出せないほどに流行は目まぐるしく変わっていく。
それなのに、と思うことがある。
英語を話せる人間が少ない。日本では暗号ともいえるかもしれない。
和訳を自らできる人間は強い。何かを媒介して翻訳されたものは表情から側面的な情報を得られないが、自ら翻訳できたとすれば発信者の表情まで鑑みて訳することができるからだ。
気になる女子高生がいる。3人組でいつも電車のなかで大きな顔をしている。通学と思われるその3人の女子高生はお下げに眼鏡、ルールを守ったきちんとした制服を着ながら車内で大声で英語で話し合っている。誰も彼もが遠巻きに敬遠している。何を話しているかわからないからだし、英語をこんなに自由自在に操れるなんてすごい!という羨望の眼差しでもあろう。
私はその3人組が大嫌いだ。英語で彼女たちは口汚くあらゆることを罵っている。目の前でスマホゲームに興じる女性のこと、うとうとしている老齢の男性のこと、顔をゆがめて大声で聞こえよがしに嫌味と悪口を言って遊んでいるのだ。
誰も何を言っているかはわからないことをいいことに。
親の顔が見たいと思って彼女たちが降りる駅を観察した。東京駅までたどりついて、改札を抜けていった。
京浜東北線に乗るのか山手線に乗るのか、それとも地下鉄を利用して家路に着くのかはわらからないが、なんとも下品なお嬢さん方がこの田舎にまで何を学びに来ているのだろうと呆れている。
言葉を知らないことは不利だと思った。
自分に向けられる悪意、自分を利用する詐欺を見破ることができないからだ。
かつて、日本国憲法の翻訳に従事した白洲次郎はGHQから提案された憲法の草案を三日三晩で訳した。無謀なことだったと思う。誰かがやらねばならないことだったからやるしかなかったとはいえ、それほどまでに日本には英語話者の人材が不足していた。
のちに彼は言った、
「国の礎となる憲法を三日で訳して発布してしまうんだからなあ、、」と。
妻の正子さんにも憲法翻訳の細かい過程を死ぬまでお話にはならなかったそうだ、「迷惑がかかるから」と。
伝えることも守備であれば、墓場まで持ち込むことも守備であろう。
何をするかによって語るべきか聞くべきかが問われる。その判断こそ宰相の器であり、政治の根本ではないだろうかと私たちは考えたりもする。
沈黙している時、私たちは聞いている。語っている時、私たちは考えている。
誰がどうということではない、あらゆる人間が沈黙しあらゆる人間が語っている。
私たちはチームであるからだ。
テロリストという言葉が世界的に流行した時、誰も言わなかったことを思い出す「あれはクーデターだ」と。
白黒つけろとわかりやすいことを言っている時、私たちは気づくべきだ「どちらも影響し合うものである」と。
債務者は甘い言葉の裏を読み取るべきだ、免除されても債権不履行にはならないことを。
難しい言葉も簡単に語ればなんてことはない。それができないのは宝の地図をどうにか隠そうとしてあがいているからだと私たちは本質を見抜いては笑っている。
ナチュラルキラー細胞といっただろうか、笑顔は免疫力にも直結するらしい。
笑いは世界を救う。だから笑いの種を私たちは求めているのかもしれない。
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