絡み合うことが多くてどの部分をブログで書くべきか、私たちはいつも悩んでいる。
「消息からのあらすじ」の抜粋にすべきか、この頃の近況報告が妥当であるか、、、
MT SECONDの仕事は多岐にわたる。主に芸術によってであったけれど、最近ではその範囲がかなり拡大解釈されており、それぞれの負担が短期観測で測っていかなければ回らないほどになっている。
憲法9条の拡大解釈に似ている。それだけでは収められないけれど、現行上仕方なく、しかしゆくゆくは状況に鑑みて臨機応変に。
温故知新という言葉を私たちは大切にしている。かつて老害に商売を妨害された私たちの諸先輩の悔しい思いを引き継ぎつつ、老害が若輩者だったころの諸先輩方に敬意を払うことにもなるからだ。
私たち若者は諸先輩方に伏魔殿の惨状を口伝承として聞かせてもらっている。井戸端会議程度のことだから文章化したり、議事録にするようなものではない。しかし、本人たちからの心のこもった講義に誰もが心を揺さぶられている。MT公会堂はなかなか語ろうとしないから、JERUSALEMや芍薬がなんとか苦労を聞き出そうと努力した。寄り添うだけでは意味がない、実際にリアルにその立場に立つためにタイムトリップを幾度もした。時代考証という点ではDEAD SCREENINGなどは立場上やりやすかったかもしれない。
すると、出るは出るはで、嘔吐しかけては時間をおいて自らの体調を整えるその繰り返しが現時点と言えるかもしれない。
仕事を何とすべきか、仕事は何を担当とするのか、各々が日々悩んでいることだ。
私たちの中には、見てみぬふりをしなければならない人も多かった。家族を守るために
秩序を守るために知らないふりをすることもまた時に最善であったのだ。守備範囲を見誤ると総崩れを起こしかねない。歴史は繰り返されるのだから、夜明けを皆が待ち望むしかなかった。
加藤一二三さんという棋士がおられる。「神武不来方の天才」の異名を拝した加藤先生でさえ藤井聡太さんについては「天才」と評している。
神武不来方の天才の出現以来、新たな神童が世に放たれた。相手を認めるとき、自分が何者であったかを思い出すことが重要だと教わった気がした。
時代の風雲児もバブル全盛期のベンチャー企業にも加藤先生のような自分が何者であったかの自認の上に相手を認められる先輩がいればと悔やまれてならない。私たちにはそれぞれに役割があり、その役割は時代と共に変化していく。
明治維新では身分制度が撤廃され、自分の目指す職業を万民が与えられた。新しい時代の幕開けは誰にとっても真っ白なキャンバスであったから大胆に皆が協力しアイディアを出し合うことができたのだ。旧態依然の感性は時代の最末端である。だからそれは居心地が良く安定した感覚を与えられるだろう。仕組みを作ったものが体勢を守り続ける以上発展はない。仕組みを作ったものはいずれその仕組みと子離れしなければならない。行く末を次の世代にバトンタッチできないから若者に「老害」と邪険にされるのだ。完璧な仕組みなら世代交代をすることに何の恐れがあるというのか。
MT SECONDのご年配の方々は私たちに快く希望を持ちつつバトンタッチをしてくださる。御大として裏で意見をくださるが、決して取締役権限を持って院政を引こうなどとはお考えになることはない。だから私たちもことあるごとにご相談にお邪魔している。「おじちゃん!」とまるで親戚の子のように。
人生80年その中でどれだけのことを学び取ってきたか、どれだけの大事業を成し得てきたかは手放す瞬間の妙で垣間見ることができる。「老兵は死なず、ただ去りゆくのみ」といったマッカーサー元帥の潔さは男の強さや色気にも感じないだろうか。
いつまでもすがっているというのは、死を恐れる俗物的なことだ。つまり徳を積むような仕事をしてこなかったという意味でもあろう。
私たちは過去から良いものを継承してきた責任がある。しかし残念ながら借金も相続せざるわえないわけだが、清濁合わせ飲み、連綿とつながるチームワークを持って世界が一丸となってよりよくしていくことを大まかな旗印としている。
私たちなら大丈夫!
その真意こそチームワークであり、世界が一丸となって過去の汚泥を一斉清掃することではないだろうか。
起きてしまったことが大事であっても、私たちなら大丈夫!もうひとりではないのだから。
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