総括する癖がある私に神様がたくさんの試練をお与えになった。
終わりにしてしまおうと生き急ぎ平穏を無理やりにこじつけようとする私に神様は、ここは誰の世界なのかを徹底的に教え込んでいる気がする。
思えば5年も前から私の知らない所で始まっていた行進曲に、3年前からいちゃもんがつけられ、私の知らないところで戦がはじまっていて、2年前から私の知らない天国がこの地に広げられ、天幕のような煌めく世界が地ならしされていた。
知らないところで1年前私はぽっと偶然に出会ったかのように錯覚させられていたことも、実際は数年の準備期間を経て満を持してだったのだろうか。
JERUSALEMたちは言う「いや、そうじゃない。正直言って待ちくたびれた」。
いくつもの終焉を決定してきた、私の心の中で、私の正義の中で、私だけの人生の中で。
引っ越し、自立・自活、結婚、離婚、転職、就職、入学、新しいパートナー、父の死、離別、
どれも終焉と決定付けるにしてはもっともらしい名目で、誰が見ても間違いないはずだった。
しかし神様は今もおっしゃる、
「終焉ではない。あなたが総括するような人生を私はあなたに与えていない。あなたの人生は私が総括するからだ」と。
ハプニングとサプライズがポジティブに思えなくなった。誰がどんな思いを寄せていても正直迷惑だと思うほどに多くの驚くべき伏線が張り巡らされていた。まるで、ルパン三世の赤外線センサーをかいくぐるかのような日々だった、特に今年に入ってからは。
イライラ棒を先日科学館で体験してきた。最初からうまくいかなくて何度も「ブー」と音が鳴って、道半ばで「もう鳴ってもいいからゴールしたい、早く終わりたい」と思うようになった。ひとりで遊びに行っていたから、笑ってくれるギャラリーもいない。ひとり苦笑してひとり気まずい思いをした。
JERUSALEMはそんな私を見てどう思うのだろうか。神様はそんな私を見てどう思うのだろうか。
「一緒に行けばよかったじゃん」と呆れるだろうか。
「さて今日は何を学びとれるかな?」と笑うだろうか。
私の人生はドラマチックだと思う。とにかく失敗が多い。道を歩いているだけで不運に見舞われる。洗濯していれば綿毛が鼻に入る、澄ました表情をしていれば歯に口紅がついている、カッコつけて歩いている時に限ってこける。
とにかくドラマチックに喜劇だと思っている。
人生は目的を持ってしまうと、ふいにゴールを迎えてしまうときがある。ラッキーが重なるかもしれないし、努力が実るかもしれない。目的を達成した後のことを人間はあまり考えることがないかもしれない。
私は人生に目的を持たないようにしている。行き当たりばったりの性格も相まって目標だけはなんとなく掲げるようにしている。人生のチェックポイント、なるべく大きくしている。
作家になりたい、弁護士になりたい、美人になりたい、モテたい、都会の女になりたい、ボランティアをしたい、
まあ、小学生のころはこんなことを人生のチェックポイントとしてぼんやりながらも掲げていた。
人生に目的を持ってしまうと、到達した時にその先の歩み方がわからなくなってしまう。燃え尽き症候群は周囲を困惑させるだろう。
人生に目標を持っておくくらいのほうが進みやすいはずだ。しかも荒唐無稽で絶対到達なんて無理と思われるような巨大で壮大なやつがいいと思う。うっかり達成してしまわないためにも。
私は夢の悪魔という言葉を最近好んで使うようになった。
夢は達成するまでが美しい。夢の悪魔のラスボスはその人に達成という現実をつきつけ、生きる意味を失わせる。私たちは夢なんか叶わないと言われて育つことが多い。叶わないからいい、叶わないから生きる意味を失わないで済んでいる、その時までは死ぬものかと生きる気力与えられている。
私たちは大いに夢を持つべきだ。そして夢の悪魔のラスボスに人生を壊されないためにも、夢の悪魔も恐れおののき、退散してしまうような巨大な夢を持ち続けるべきだ。
アップデートは適宜必要。夢が目標ではなく目的となって達成してしまいそうになったら、すぐにもっともっと大きな荒唐無稽な大きすぎる夢を持とう。
生きるために、人生を継続させるために。
夢をいちいちシェアしなくていい。いちいち宣言しなくていい。生きる目標は自分で定めるだけで十分だ、どうせ笑われる、だってみんなそんな夢を見られる心の余裕がうらやましいんだから。
夢をあきらめるな。いいえ、夢を見続けろ。生きる糧として。
銀河の行軍は私とJERUSALEMのぼんやりした目標だった。それがもうすぐ目的として達成してしまいそうになってイバラの御旗に書き換えた。
小説だけで何かを成し得る不安が出てきたから、デザインもはじめてみた。
JERUSALEMたちは私のことを行動力のある女性だと目をまるくしているけれど、私から言わせれば「己らが仕掛けたサプライズとハプニングで鍛えられたんだよ」と言ってやりたい。
ちなみに私が夕陽を好んでいるのは終わりの時間帯であるから。真っ赤な空が私に「もう終わりでいいよ」と終了の合図をくれている気がしていた。はじまりを意味するとも知らずに私はその終わりの合図を好んでいた。
クリスマスイブがイブニング、つまりユダヤ教のはじまりは夕方からだという伏線を知らないただのクリスチャンだった頃は。
0コメント