犬が飼い主の手を噛んだから殺処分に相応しいというのは飼い主の判断で、保健所に連れていくのならまだしも、野犬にして無関係の他人に殺処分の手続きを間接的に依頼するのはいかがなものか。だとしたら、野犬にされた犬は心を決めて野良犬として生きていく強さを見せたらどうか。
猿回しの猿の躾は猿回しに一任されている。猿は主人を選ぶことができない。しかし、猿は利口だから猿を演じ切ることができる。犬と違って、猿には生きる知恵がある。プライドとか温情とかそれ以上に生きることへの力強さがある。
さて、この犬と猿が喧嘩をして武が良いのはどちらか。
犬猿の仲という慣用句があるように犬と猿は相容れない。共闘することは難しいのかもしれない。同じ檻に入れたら殺し合いをしてしまうだろう。
桃太郎の伝説では、桃太郎が鬼退治のために犬と猿と雉をお供に従えた。
さすがだと思わないだろうか。犬猿の仲と言われる智将の才能を雉という中和作用によって見事使いこなしている。
雉は空を飛ぶ、俯瞰することができるから喧嘩の仲裁には中立を保って裁くことができた。制空権を支配する雉には大きな役目がある。全体を見渡し正義を問いただすことである。
制空権を全任されている雉がなぜ暴走することなく、桃太郎に従ったかという疑問を抱かずにはいられない。地を占むる桃太郎に成り代わって世界を支配することは可能だったように思う。大きな翼は地を歩くものには持っていない最大の魅力だし、その魅力に誰もが魅了されるだろう。
なぜ、我欲を出さなかったのか。
簡単な話である。雉は渡鳥だから、せまい日本で天下を取ることをさほど大きなことだとは考えていないのだ。
一時的に滞在している日本で、ちょっと面白そうな鬼退治に参加してみた。何やら犬とか猿とか見識のせまいふたりがぶつかり合って、それでも才能を信じて疑わず使い続ける桃太郎を不憫に思ったのかもしれない。
犬も猿も相変わらずに罵り合い、桃太郎はその仲裁に神経をすり減らしている。
雉は常に俯瞰している。桃太郎につくことも、犬と猿と蜜月を結ぼうとも考えない。
桃太郎には諸説ある。
川から流れてきた男の子は捨て子だったとか、その捨て子に対して「去る」「居ぬ」「帰じ」と「お前は最初からいない子だったのだから戻ってくるな」と呪縛をかけているとか。
猿、犬、鳥は、干支の裏鬼門と呼ばれ、表鬼門の丑寅と対比させて子どもと親の尊厳を説いているとか。
烏合の衆というのは目的で繋がっている。目的のみが絆であり、そこにわかりやすい旗印を作ってみたり、ひとつになれる讃歌を用いてみたり、切ろうと思えば簡単に切れる関係だからこそ互いに途切れないよう創意工夫をこらす。
だから横のつながりを失ってしまったらその集団にはとたんに分裂が生じる。
私たちMT SECONDも烏合の衆である。桃太郎のように捨て子であるし、猿、犬、雉のように自己主張が強すぎて社会からつまはじきにされて寂しい思いをしていた、縁もゆかりもない者同士が「家族になりたい」という目的のために集っている。
血縁がなく、しがらみもない分、絆は本来弱い。でも2度と離れたくない思いが、それぞれの利己的な思惑が、利己的な寂しさが私たちを結束させている。
犬に成り下がろうと、猿回しとして道化を演じようと、雉のように期間労働者であろうと、そして桃太郎のようによくわからないけれど「ただ前進あるのみ!」と馬鹿に熱い牽引者であろうと、私たちは横の弱いつながりで繋がっている。「家族になりたい」という切羽詰まった悲しみによって。
だから私たちにはいつも旗と讃美歌が必要なのだ。
アメリカが合衆国であり、旗と国歌の下にだけ結束を固くできるように。
アメリカに学べ、血縁に絶望して生きることを決めた小さな日本人の私たちは今こそアメリカの文化に学ぶべきである。
MT SECONDもまた烏合の衆の集まり、インターネット上の合衆国であるからだ。
建国記念をそろそろすべきなのかもしれない。
私たちには旗と国歌が必要だから。
MT SECONDの吉備団子は愛と平和であることを約束します。
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