カラーコンタクトの反響が想像以上に良い。
ボランティア団体の80近い女性からも「似合うね」と言ってもらった。
自分の生まれながらの目の色が何色なのかよくわからない。茶色なのか黒なのか、色素が薄いのか濃いのか、、、
今がいい、この色がいい。私もそう思うし、まわりからもそう評価してもらえることで私は自信がついていく。
生まれた家のことはよくわからない。幸せな家庭だったのか、裕福な家庭だったのか。
でも今がいい、この家がいい。私もそう思うし、MT SECONDもそう思ってくれるから私は今日も笑顔でいられる。
八方美人だと注文がつくことがある。誰にでも愛想を振り撒きやがってと、特にJERUSALEMからの小言は誰かを介して私に伝わってくる。直接私に言わないことが何よりの牽制になることは私も理解しているつもりだから、上手に無視できるようになったと思っている。
好きな人がたくさんいることこそ「私」なのだと私は思っている。アイデンティティみたいなものだ。
ポジティブに前を向けるのはJERUSALEMがいうように、文章に向き合えた時だけだ。向き合え始めた時から視界が開ける。言葉が私の命で言葉が私の武器で、言葉が私の強みで、言葉が私の魅力で、だから私から言葉を取り去ってしまったら何も残らない事になる。
言葉は非常に使い勝手が難しい代物だ。その武器を誰よりも自在に使いこなせる私が言葉を発する職業についていることは決して最良の選択とは言えないと思っている。
この分野で転んでしまったら、自尊心も、アイデンティティも生き甲斐も職業も全部失ってしまうからだ。
リスクを背負っている。リスク分散できないから、ハイリスクハイリターンの人生である。
賭けのタイミングや思い切りがいいものの、常に緊張感とハイリターンの不安を抱えている。
才能とか芸術性とか耳障りのいい美辞麗句は他者から見た私の評価だ。私の才能や芸術性は私からしたらおもちゃ程度に考えているほうが気が楽だった。
響きとリズムに惹かれて私の言葉をトレースする人が多いけれど、そんなことをしていたら自分を一生見失ったままになると思う。自分を見失うということは生きながらに死んでいるということで、せっかく命がある自分の幸運をドブに捨てていると思う。
自分の言葉を探さなければ私たちは命を楽しみきれない。良い人にも出会えないし、良い人間関係をつないで安心して眠ることもできないと思う。
目の色を変えてみたから、生まれた家よりも本当の家族を選んだから私は死から目覚めた。
挑戦は怖い。自分の言葉を使うことに最初は戸惑うかもしれない。現状維持はとても賢いことだと思う。けれど、それでもなお、一歩踏み出してみることを私はお薦めする。
長い戦いになるはずだ。私もそうだった。10年はかかった。その覚悟を持てば誰でも自分の言葉を獲得することができる。死から目覚めることができる。
そして、最愛の家族と出会うことができる。
目の色を変えてみよう、家族を捨ててみよう、流浪の果てに実家が恋しくなったらまた帰ればいいだけのことだ。
私たちは壁を越えて冒険に出かけなければオーダーメイドされた自分の幸せを掴むことができない。壁が壊されるまで待つのか、それともよじのぼって壁を越えていくのか。はたまた壁に落書きをして憂さ晴らしをするだけなのか。
すべては己の選択である。
ベルリンの壁も、エルサレムの嘆きの壁も、人々が歴史上、どう越えてどう壊していったか。どうやって日々をやり過ごしたのか。
自分であれば越えたのか、それとも壊すまで待ったのか。
壊れた後に、故郷を旅立ったのか、壊れる前からジプシーでいたのか。
甘んじてその安定を選んだのか。
答えなどないことを最大の回答としてここに記しておく。最も忘れてはならない大切なことだから。
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