死んでは生き、生き返り、また死に、また生き返る。
私たちがこの世界で生きていく時に必要な概念こそ「死」である。復活祭を目前に控えたこの受難節が間違いなく死を疑似体験させていてくれることを感じている。
自分の死とは?自分の十字架とは?自分の復活とは?過去を振り返ってほしい。必ず十字架を背負って死を経験し、良くも悪くも復活したはずだ。
ファッションではじめたクリスチャンという信仰がまさかこんなにも自分を育ててくれるとは思わなかった。
この春、新しい季節、新しい環境に入る時「なぜかわらからないけれど」と目的もあやふやにはじめる人も多いはずだ。
「とりあえず大学に」「とりあえず就職を」「とりあえず高校に」「とりあえず実家を出よう」などなど。意味がないこと、目的がないことに悩む時が必ず来る。世間が目的や意味を求めているからだと思う。しかし、それは時に建前であり、その建前を言わねばならない立場の人がいることも事実である。そしてその事実を知るにはまだあなたは「早すぎる」可能性があることもあるだろう。
すべては時が備えられている。神が与えられたその時にしか物事は動かない。神が定めたその時にしか私たちは事実を知る機会を与えられない。
今はじめたことも神のご意志である。
目的があやふやであったとしても、自分の意思もなくわかめのように世界の波に乗ってしまっただけだとしても、その目的が明確に自分で理解できなかったとしても、それもまた神のご意志なのである。
知らずに乗せられたノアの方舟の動物たちは、自分達が救われた存在だと理解できなかったはずだ。洪水の起きる前に小さな船に押し込められたのだから。野を駆け回る他のものたちに対してどれだけ羨望の眼差しを向け、どれだけノアに対して恨みを向けていただろう。ただ繋がれてしまっている上下関係において、何も理解できない動物たちは自分達がいずれは救われる存在であることを理解する想像力さえなかったはずだ。しかし乗せられてしまったら降りることのほうがリスクが高い。
一寸の虫にも五分の魂というように、どんなに小さな存在であろうと、またどんなに巨大な存在に成長しようと生命あるものは命を最優先する、他人をかき分けても長寿の薬を独り占めしようとする。
歴史の中で世界を手に入れた武将たちの悲願にして決して達成されなかった秘薬こそ不老長寿の薬である。
命が自分の手中にあると思うとそれを死守するために他者を傷つけてしまう。運命が自分の手でいくらでも動かせてしまうと傲慢な味を一度でもしめてしまうと、人の尊厳という概念を失ってしまう。
傲慢な概念は尊厳を重んじることの対価交換であると私は感じる。
御子の命を代償に私たちは罪を贖われた。
尊厳を差し出せば傲慢な概念が与えられる。
わからないその時でさえも、理由に戸惑う数奇な運命さえも、幸運や不幸も忖度なく神の手中にあると知れば、悪魔に魂を売り渡さずとも必ずや何者かになれるはずである。
今、私たちの苦い過去が復活の時を迎えている。悪魔に魂を売り渡したあの苦い過去さえも、今、復活の時を迎えている。
売り渡した尊厳を傲慢を支払って買い戻す時が来た。
時いたり。
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