仕事をしている時のうちの連中はまるで別人だ。私は物書きだから彼らとは躍動の強度がそもそも違うわけだけれど、だからこそ、私の仕事中の雰囲気は私が彼らを見るように、別人のようにかっこよく見えているだろうかとか怯んでしまう。
好きな人には好かれたい。好きな人には美しくみられたい。と、思うものの、自分の姿を客観視したくても、鏡を目の前にして作文をするわけにはいかない。ただ真っ直ぐと真面目にやっていても、唇を突き出して、乱視を矯正するように目を細めてPCと睨めっこしている姿はお世辞にもイケてるとは言えないだろうと思う。
カッコつけて生きているもののかっこよく生きられているとは思わない。私は不恰好でダサいと言われ続けてきた。理不尽な言い訳も言い分も鵜呑みにしてきたせいか、自尊心がここぞとういときに消滅してしまう。いや、語弊がある。消滅するのではなく、VRを装着させられて偽物の世界を見せつけられる感覚に似ている。偽善と欺瞞を私は最も嫌悪する。「純粋すぎるんだよ」となだめられている自称恋敵の女性を思い出す。自称恋敵と仮称したには訳がある。箸にも棒にもかからない彼女の幻想と粛々と過ぎゆく現実の乖離を単純に合致させるためである。
慇懃無礼のつもりはなく、形式ばった言葉を用いて自分を律しているのである。
「あのような浅はかさはいつ私を覆い尽くすかもわからない」。
油断大敵、世の中の多くは魑魅魍魎であり、人型マシーンであるから、生き方万事万全どれもこれもが画一的なのだと感じている。飲み込まれる大波は時代の潮流である。私とて弱い生命体だ。集合体としては強固で盤石であっても、角石ひとつでも崩れてしまえば大阪城と言えども要塞とは言えなくなる。
金をかけたとしても、時代の知識を集結させたとしても人が作ったものは脆い。たったひとつ、角石を取り去れば難攻不落の城でさえも炎上する。
私は大阪城を守る側の人間だ。浪人風情に落ちてしまった真田一族に白羽の矢が立てられたのは、過去の武功と波に飲まれてもなお崩れないお家の大義名分があったからであろう。
日和見主義は時代が変化しても所詮外様である。しかし、背水の陣で腹を切る覚悟で望んだ真田は家を分断してもなお真田の家名を存続させた。
家を存続させるのか当代の地位を保持するのか。
私はいまだ子供がいない。されど、守るべきものはできた。だから自らを分散させ、家を存続させることを選んだ。
時代は進み、江戸の世となり、江島という大奥の人間が座敷牢に閉じ込められた。事件は江島生島事件として後世に伝えられている。江島は高い役職についていた女性だ。立場も目下の者たちの悲しみも鬱憤も重々理解していたはずだし、責任の所在がいざとなれば自分に訪れることも理解していたことだろう。そして、それさえも許されない世の中であればどうにでもなれとさえたかを括っていたのかもしれない。
時の政権が江島を座敷牢という処罰にとどめていたことに事件の闇が見え隠れしている気がしてならない。
何が真実であるかは現代の私たちでは到底計り知ることさえできないものの、江島が座敷牢とされていた高遠は今、桜の名所として名高い。
春が来たら私は高遠城址公園に行こうと思っている。私と恋人と、そして妹と妹の恋人と4人で。ようやく事実が白日のもとに晒せる。私は妹とは恋人以前の旧知の仲だ。それが私と恋人の運命となった。出会う前から私たちが家族である所以である。妹には感謝している。健康が回復されるようにと「私たち」は今日も祈っている。LOVE‼︎
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