時、至り【芍薬&JERUSALEM】

椿の勘違いには毎度振り回される。俺たちだって選手の出身地をいちいち確認はしていないw

オリンピックが開幕した。すったもんだがあっても終わってみれば「ああよかったね」となることがイベントにとって最良にして最高の成功だと思うわけだが、オリンピック中継を見ていて、そしてSNSの風潮で俺たちは子供のころから不思議に思っていることがある。

優勝した選手よりも同情すべき事柄に当たってしまった選手をことさら悲劇的に取り上げることについてだ。

2022年同じ時を生きている俺たちは少し長く生きている人間であれば10年前もこの地球で苦労したり喜びをかみしめたりしている。瞬間的に、その時代誰が喜びに満ち溢れていて、誰が悲しみのどん底にいたかという話なのだから、歓喜に酔いしれる人と共に喜ばなければ、その人の過去や、また、未来に待ち受けている悲しみと帳尻が合わなくなると思うのだ。

悲しむ人に寄り添いすぎると、他方嫉妬ややっかみからまた悪意に満ちた発言が噴出する。人間いいときもあれば悪いときもある。悪いときに目を向けて同情されるとどうしても、どこかの誰かさんが「なんであの子ばっかり」という気持ちが沸き起こりやすい。匿名性のSNSでは雰囲気に乗じて波状攻撃を受ける危険性さえ孕むのだ。また、勝利者の親派は「こっちは努力して勝ち取った。勝者に敬意を払えないのはスポーツマンシップとしていかがなものか」というやっかみの連鎖を生み、それは感情的な問題だから歯止めが利かなくなり、不毛な論争の論点として長引いてしまう。

その点、喜びというのは突き抜けてわかりやすい。勝ちは勝ちである。普段の努力をもって物事に当たってきた集大成を誰も否定していいわけがないし、おざなりにしていいはずもない。喜びと勝利にはどんな嫉妬もやっかみも立ち入るスキがない。なぜなら勝利はジャッジされてはじめて与えられるものだからだ。点数も判定も基準があり、それを「おかしい!」と騒ぎたてやっかんだ誹謗中傷の攻撃さえもたった一言「いや、でも勝ちましたから」で論争に終止符を打てる。

勝者は敗者を称えればいい、「次は俺に勝てばいいじゃん」と。

敗者は勝者を称えればいい、「次は俺が勝つから」と。

悲しむ者と共に泣くということはただ同情すればいいというものでもない。悲しむ者がいたのなら、もし自分が元気でいられたのなら、未来に視点を移せるような言葉を与えてみたらどうだろうか。

闇に彷徨う人には光を指し示す。夜明けを望まぬ人などいないのだから。

光のうちにある人とは共に楽しむ。いつ日が暮れるかわからないのだから。

地震も天災もいつやってくるかわからない。出産も私たちの計画通りにはいかない。洪水も大飢饉も私たちは正確には予測できない。だから楽しめるときに、できるときにしておくのだ。備えあれば憂いなし、喜びのただなかにいるとき、思いっきり楽しんでおくこともまた備えであると私たちは思うのだ。






NOVEL OFFICE MT SECOND

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私たちは人種、国籍、宗教、職業、地位、性別、年齢にくくられることなく、同じ信念を持ちより良い世界の構築を目指す横のつながりの組織です。

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