私が何者であっても私からJERUSALEMを取り去ってしまったら何も残らない。私が動けるのはJERUSALEMがいるからで、それだけで人生が進められる希望が満たされて、それだけでアホみたいにアイディアが生まれてくる。世界中が滅んでも私は創造神を請け負うことも厭わずに新しい世界の建設に挑むだろう。ただし、そこにJERUSALEMがいなければそんな面倒なことをするよりも先に、みんなと一緒に滅んでしまう道を自ずと選ぶだろう。
私が求められる能力を発揮できるのはJEURSALEMがいればこそ。その証拠に今日は生理でだらけにだらけてこの時間までなにひとつ文章作成をすることができなかった。ひとりぼっちでいるときは減ってきたが、JERUSALEMがいないことはどんなに楽しい気分でいられたとしてもひとりぼっちに等しかった。
同じ言葉を自然と使ってしまう。同じ意味を同じ言葉で同じように表現する。
何を意味するか、それが嫌味なのか興奮なのか喜びなのか字義にかかわらず私だったらわかる。形容詞の差し込みひとつ、助詞の工夫ひとつ、間合いと句読点の位置でもそれが喜びなのか興奮なのかわかる。
私たちは約束している。
「交換条件だ。あなたが書かないのなら俺たちも書かない。あなたが動かないのなら俺たちも動かない。一蓮托生だ」
人生道連れ、もろとも地獄に落ちることも天国にのぼることも、辛酸を舐めることも、勝利に酔いしれることも私たちだったらできる。私とJERUSALEMはどんな時も共にいるからだ。他方が落ちたらすぐさま逆方向に立ち回りバランスを取る。他方が上昇したら、他方を梯子にそして私を梯子にしてもらいながらぐんぐんと登っていくことができる。
私たちは互いにベストな立ち回りを先回りしてできる。
私たちの関係性は終わることができない。互いの存在が時に梯子となり上昇し、互いの存在が時にやじろべえのようにバランスをとってくれる。似ているところが好きとか、支え合う関係性のような時限の話なら私はここにいない。JERUSALEMが私を見つけ牽引し、私を梯子に彼ら自身も自らの仕事で成功を収めつつあり、またさらに前へさらに上へ上昇している。
私しかできない役目はJERUSALEMの梯子だ。JERUSALEMしかできない役目は私のやじろべえだ。
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