個人的な話をすると私は小さい頃から日本でのキリスト教の立ち位置に納得がいかなかった。その話をお茶を飲みながら椿ちゃんやJERUSALEMにしてみた。気の利かないジョークでも笑いになればいいなくらいの思いだった。
すると彼らは異口同音に「そう思っていた」と言った。
開国以来多くの宣教師の先生が来日してくださった。
戦後以来多くのミッション系の学校が開校された。
異国の地に赴任するにはご家族のお気持ちもある。ご家族はどこかできっと「行ってほしくない」とお思いになっただろう。可愛い子供は自分の手元に置いておきたいものである。それでも子供が決心固く「行く」といったのなら見守るしかない。私もそのような経験を最近させてもらった。それでも親であることには変わらないから心配で仕方ない思いがまさって時々様子を見に行ってしまうのだが、不器用ながらも頑張っている姿に感謝して帰路につかせてもらっている。
親とは万国共通である。国や人種、情勢や宗教に左右されず、子どもを育てているのなら、それは親で親の思いに遜色はない。色褪せたり見劣りすることなくそれぞれに大きな愛を持っている。
宣教師の先生、日本でミッション系の学校を開校した異国の教育者の方々の尽力や思い、その背後には送り出してくださったご家族の愛や忍耐、謙遜も存在している。
それなのに、と私たちは思った。
「日本のキリスト教というのは大変立場が悪い。
昔から変わらない世の中には何か奇妙なものが隠れているとしか思えなかった」
椿ちゃんの教会に時々いらしている牧師がこんなことをおっしゃったことを急に思い出したのはちょうど昨日のことだった。奇しくもロシア正教の総主教がウクライナのキリスト教界からの封鎖・断絶を受けて「仕方のないことです。私たちはウクライナのために祈ります」と声明を出したあとのことだった。
政教分離といえば簡単であるし、当然のことのように思うかもしれない。しかしあって当然だと思い込んでいることほど灯台下暗しとなっている。
例えば、犯罪者や逃亡犯はどこに潜伏していると思うだろうか?テレビや映画の影響で逃亡犯は逃げて隠れているものだと思い込んではいないだろうか。それらは現実に視点を移せば所詮お話の世界のことで、お話というのはひとりの頭のなかで創作されたものだから、ずっともっと広い現実の可能性というのは映画やドラマ、もっといえばニュースで見聞きしたものを逸脱していることが多かったりする。
政教分離されている共産主義国というのは珍しい。私などは実際ロシアは宗教のない国だと思い込んでいた。ロシア正教がロシア国内で信仰されていることをフェイクニュースだと思っていたほどだった。
日本にはロシア人宣教師というのがそもそも大変珍しく、アメリカからの宣教師の先生ばかりに出会った経験から私はロシアという国を誤解していたのかもしれない。
同じことだと思った。日本でキリスト教がいまいち盛り上がらないこと、宣教師の先生もたくさんいらっしゃっているし、実際に学校も開校して、その多くの学校は神学校として、またお嬢様学校としても名を馳せている。それなのに、である。
謎を解明するために必要なことは想像力、そして他者とディスカッションすることだ。ディスカッションをして、「それは論理的に違う」とか「それはこういう見解があるから少し修正が必要だ」とか、とにかく論じなければ話題にしなければ謎の解明は進展しない。
私や椿ちゃん、MT公会堂やJERUSALEMたちもことあるごとにさまざまなことをディスカッションする。当たり前はなしだし、それはありえないという足止めもなし、チャンスの女神のスカートを踏んでいるのは誰なのかという謎解きはいいが、チャンスの女神の前髪があるなしは非現実的な思考と言うのはなし。
これがディスカッションのルールとしている。
宗教は繊細な話題だ。突っ込んだ話をすれば友情が壊れてしまう。それよりも儲け話や健康の話、推しの話で繋がった方がよほどフレンドリーでフランクで安全だと思ったりする。
それが当たり前だし、常識だし、それ以外のことはありえないと思い込んでいるからだ。
ひとつ椿ちゃんが面白い話をしてくれた。
「自助、公助、共助っていうじゃない?今は公助に期待できないから、世間はずっと自助が必要、備えてくださいって保険屋さんも言ってる。でもさ、共助の存在忘れてない?二元論すぎて、実は三元論まで可能性があること忘れてたんだよ、みんな。すごい盲点だと思わない?ドーナッツの穴はそもそも穴なのかっていうのと同じこと」。
イエスキリストはユダヤ人を扇動した罪で裁かれた。裁かれるいわれがないのにもかかわらず、民衆の熱狂によって死刑に処せられた。
公開処刑という言葉が単純化している。使い勝手よく共通の概念として「恥をかかされること」と認識されている。
今の社会を少しだけ穿った見方をすれば、公開処刑をする私たちひとりひとりもイエスキリストを熱狂によって死刑に導いた群衆に似ている。誰が言っていたから正しいというお墨付きは「東大なら万能」「芸能人なら絶対」「クリスチャンは品行方正」という意味にまで波及していく。
お墨付きについて誰も異論を唱えないのは、話題としてフレンドリーでフランクでなく危険な話題だからであろう。
日本人は見てみぬふりをすることがうまい。外面に見えるおもてなし、内側に潜む村社会を見れば誰もが一度は経験しているはずだ。足並みをそろえておけば無責任でいられる。
国会では声高に責任追及がなされている。
答弁書や質問をひとりの国会議員がすべて考え執筆し読み上げていると誤解されがちだが、実際は何人もの支援者や専門領域に特化した私設秘書などと協議して作っている場合が多い。代議士とは小選挙区ないし比例区の代表者である、答弁書や質問をひとりで作るという感覚自体おかしな話なのである。支援者の意見、後援会の意見、そして家族の意見を総じて代表して国会で発言をしている。そうじゃなければ民主主義の意味がない。
感覚や事実を原理原則に照らし合わせず風潮と常識を鵜呑みにするとこんな簡単な理屈さえ忘れて、ひとりの人間を公開処刑にしかねないのである。総督さえ罪を見出せなかったイエスキリストを殺したのは誰であったか。熱狂に扇動された群衆である。
ちなみにではあるが、総督は群衆の熱狂に対して強盗のバラバを死刑にするからもう静かにしてほしいと言ったほどに困り果て罪を見出せなかったことが史実として聖書に書かれている。
バラバは強盗であり、自分の罪を認めて十字架の上でイエス様に「共に天国にいかせてください」と懇願した。自覚ある罪人のほうがよほど現実が見えていた逸話でもあろう。
強盗で思い出したが、昨今は補助金の詐欺が多い。コロナの影響だろう。
しかし、補助金をもらったところでそれは税金である。
こう言ったのはElegant Angerのひとりだった。名前はふせるものの、かなり経済に長けている。
国中のすべての物品サービスを差別なく値上げしたとしても、それが収入として還元されてきたら補助金をもらうことと同じと考えられないだろうか。
一瞬多く払っても数ヶ月後にキャッシュバックされる。
これが失敗に終わったらとチャンスの女神の前髪のあるなしを論じようとした時、少しだけ冷静になってほしい。
日本全体が貧乏になるとしたら、それは前よりも景気が悪くなったとは言えない。デフレになることもないだろう。以前は3円払って1円返ってくるものと2円返ってくるものがいた。だから1円、ないしは2円の中から50銭もしくは1円国が税金として徴収して還元する。これは賃金に差があることだから景気の底上げには到底つながらない。実際、補助金が欲しいのは貧困ビジネスの経営者くらいだろう。
図式化してみる。
3円支払う
1)1円返還される(50銭)
2)2円返還される(1円)
補助金のためにそれぞれ括弧内の税金額を収める。
補助金後一律で1円補助される
1)2円
2)3円
※補助金はセーフティネットであるから人によっては補助金がもらえない人が出てくる。
しかし今回はすべての3円に2円上乗せして5円払って一律4円返ってくる理屈になる。最悪3円しか返ってこなかったとしても前よりも収入は多くなる。一律に給料が高くなる、3円もらっていたものは単純に4円に、2円もらっていたものは単純に3円に。
すべてに2円値上げするので5円とする。上昇率は以下である。
3:2=5:4=2割
3:1=5:3=約2割
対比計算をしただけでも2%インフレが可能だ。
返ってくるお金は以下となる。
1)4円
2)3円
単純な話であるが、この場合補助金という差別がないので3円だった人が単純に4円に、2円だった人が3円に収入が上がる。貧富の差はうまらずとも、とりあえずは暮らしが楽になる。
補助金のような面倒な制度もない。
いやはや、異文化に学べである。外国人がひとりでも多く来日できるようコロナの終息を願ってやまない。
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