私にとって推しは命と同等に大切だ。
推しは私の中で偶像でなければならないから、なるべく汚いところを見ないよう努めている。
日常を垣間見ないよう私が努力をするし、神格化できるように作品のみで接点を持つように努めている。
推しを、もし私が自分の日常に招いてしまったら現実逃避することができなくなる。
推しが推しであるのは私にとって非日常であるからで、好きだからと言って線引きを間違えると、例えばもしも恋人とか夫とかになったら、私の逃げ場ではなくなってしまう。まさに私にとっては死活問題なのだ。
きれいなままで永久保存しておきたいものは誰にでもあるはずだ。きれいな思い出として付き合っていくから、不条理な世の中の逃げ場を確保することができる。推しと付き合って喧嘩をすることを創造したら吐きたくなる。だから私は推しのきれいなところしか見ないように、努めて楽曲のみの付き合いに努力している。
なぜ努力かと言えば、SNSがライフラインとなりつつあるこの時代、意図せず推しのプライベートがちらついてしまうことがあるからだ。求めてもいないのに、パパラッチだとかゴシップだとかで推しのプライベートが情報として流れ込んでくる。私はファンとしてそれらの情報が自分に流れ込んでこないように努力している。なぜなら、プライベートの情報が欲しいと思うファンも中にはいるわけで、需要のための供給としてライターや出版社が存在していることも私は理解しているからだ。誰が悪いわけでもない、これは私が決めた推し活の信条である。
恋愛と推しは違う。
そう言うと我が家のぷんちゃんなどは本当に喜んでくれる。私はぷんちゃんが自主制作している音楽が大好きだ。正直推し以上にヘビロテしている。恋愛と推しは違うが、好きな音楽や感動する音楽は色合いこそ違うが私の心にずしりと響いていく。
推しの音楽は元気をもらえる。
恋人たちの楽曲は創作のきっかけとなる。
私は根っからの私小説家で、日常と自分の恋愛とそこに付随した音楽がなければ小説が書けないことを悟っている。
ぷんちゃんの音楽はひそかに独り占めしている。感動の具合が直接小説に繋がっていくから、誰かと共有しては小説にならないからだ。
ぷんちゃんの音楽が大好きだ。でも、稲葉さんの音楽とは違う。
ぷんちゃんの音楽は重い。ヘビー級の愛に私は時々具合が悪くなる。怨念がこもっている気さえしているw
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